2015-07-25

最上の状態とは

「最上の状態とは」

多くの物事というのは行き過ぎると、かえって損をすることがあります。
過ぎたるは及ばざるが如し、と、古来からも言われております。
どんなに良いことでも、偏りすぎるというのは良くないということです。

いくつかの例を挙げると、

お金を持ちすぎると、あまり良くないでしょう、
なぜなら、自分がお金を持ちすぎると、多くの人間に財産を狙われます。
それを防ごうとすると、色々なことに気を配っていなければなりません。
また、多くの人間が嫉妬をして、その悪影響を受けます。

そして、生活が必要以上に贅沢になり、体がそれを覚えてしまいます。
そのうち、それが当たり前となって、更なる欲望が現れてきます。
また、もし、一度贅沢を体で覚えてから、再び貧困の状態になると、
大変な苦労を背負うことになります。

だから、お金を失うことに関して強い恐怖を抱え込みます。
あまりに多くを持ちすぎると、こういったマイナスの影響が強く出るので、
お金は無くても困るけど、程々に持っているのが理想的と言えるのです。

勝負は勝ちすぎると、あまり良くないでしょう。
特に利害が関わる勝負は、自分だけが一方的に勝ち過ぎると恨まれます。
また、利害のあるなしに関わらず、
人というのは勝ちすぎると、必ず慢心が生まれます。

余程、自分に厳しい人格者でない限り、
人というのは勝ちすぎると、やはり良くないと言えます。
勝負は勝てなくても困るけど、程々に勝てるのが理想的と言えます。

健康は調子が良すぎると、あまり良くないでしょう。
不健康というのは、全く良いものではありませんが、
常に絶好調というのも考えものです。

なぜなら、あまりに調子が良いと、自分の体に気を配ることを忘れがちです。
例えば、仕事を頑張り過ぎたり、無理をしやすくなります。
そうなると、調子が悪くなった時、一気にその反動が来たりします。

また、気が強くなったり、必要以上の色欲に染まりやすくなり、
そうなると人間関係のトラブルも発生しやすくなります。
それを抑えこもうとすると、逆に精神的に苦労します。
不健康というのは困るけど、程々に健康的というのが理想的と言えます。

古来、満つれば欠けると言われます。
それ以上良くなることが無いので、後は悪くなるしかないのです。
では、最も満ちているのが、最高に良いというのでなければ、
一体どういった状態が最高なのでしょうか?

私は物事の多くは、七分が上、と考えています。
腹八分目ではありませんが、
最高の状態から、七分位が理想的な状態だと思っています。
ある程度良く、かつ良すぎない、というバランス感覚です。
あえて三分の発展性を残すことで、
その後、一方的に悪くなることを避けやすくなるのです。

七分より下がれば、七分を目指し、
七分より上になれば、それ以上にしようとしない。
こういった呼吸が分かると、
人生での致命的な失敗が、少なくなると私は考えています。

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--関連記事--
「バランス」--- バランスとは呼吸である。
「能力が高いと」--- 人より優れたら注意すべきこと。

2015-07-18

選択と世界

「選択と世界」

世の中にある物事というのは、
そう簡単に完全、完璧な結論に至ることはまずないでしょう。
多くの選択とは、それが最善かどうかなど分からないことが多いものです。
それでも私達は何を選ぶか?ということを世界から迫られます。

人によって意見が分かれ、結論が分からず、重大な責任の選択、
そのモデルケースの様に感じたものがありました。
それは、昔お産婆さんが障害児と断定できる赤子を殺すことです。
これは「間引き」と言われます。

これは私がネット上で見た内容で、その正確な真偽は分かりませんが、
それを見る限り、昔はお産婆さんが赤子を絞めるというのは、
一部の地域においては、それほど異常なことではなかったそうです。
今でこそ問題となりそうですが、当時は当たり前だったのでしょう。
場合によっては人口調整のために、健常な乳児を殺すこともあったそうです。

そして、問題となるのが赤子とその命の扱いです。
果たして人が人を選別していいのか?という疑問もあります。
もし、ここで我が子だったら障害児でも産み養うというのは、
とても間違っているとは思えません。
それは我が子への愛があると思うからです。

ただ、それだけが愛のある選択とはならないと私は思います。
赤子の首を絞めるお産婆さんは好きで殺したというわけではなく、
家族、親族、社会への大きな負担を考えてこそ首を絞めたわけです。
これは昔だから、と言う条件も大きな要素となります。

人間の環境というのは現在より過去の時代に戻るほど、
資源の確保が難しく生きる事がシビアなものです。
そんな中、障害児の負担は今の比ではなかったでしょう。
生活が豊かでない家族が障害児を養うことは、とても現実的に不可能です。

一体、どっちが正しく、どっちが悪いか、というのは私は判断できません。
一方は、これから生まれようとする存在を優先した選択をして、
もう一方は、今生きている人間を優先した選択をしたと言えます。
どちらを優先したとしても、どちらかが負担を持たねばなりません。
どうしてそう簡単に、どちらかが悪いと断言できるでしょうか?

選択とは非情なものです。
どちらかを選べば、どちらかを捨てることになります。
ですが、私達は選択を避けることはできないのです。

私達人類は一見すると、不完全な世界に置かれることによって、
こういった重大かつ結論が出ない多くの選択を、世界から迫られるのです。
それは昔だけでなく、現在も全く同じことです。

哲学といった学問も、そういった答えの出ない問いを考えるのでしょう。
私はその選択の正当性よりも「あなたならどうするか?」
ということが大きな意味を持つと思っています。

あなたの選択によって、あなたがどんな存在かが定義されるからです。
その結果によって、あなたの信念が明らかになるのです。
あなたがあなたを知るために、選択が必要となるのです。

お金や権力か、自己のための時間か、といったことも同じような話題です。
全く甲乙つけがたい難題を私達は常に迫られています。
ですが、なにを選ぶかによってあなたが定義されるのです。

もし、完璧な答えしか無ければ、あなたはそれを選ぶよりありません。
それはなんの苦労もなければ、変化も進歩も工夫もない世界です。
その楽園では満足できないから、私達は地球という星で生きているのです。

なぜ、世界はあらゆる問題が完璧に解決した状態ではないのか?
それは、あなたに選択させてあなたを定義させるために、
世界は完璧尽くしでは無いのです。

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2015-07-11

生命のモデル

「生命のモデル」

今日の記事は、ふとした気付きからヒントを得ました。

私は先日お風呂に入っていた時、
ふと、なんとなく指先のしたたる水滴を見つめていました。

指先から水が落ちると、浴槽に落ちて波紋となります。
ただ、なんともないありふれた光景です。
ですが、突然頭の中で閃きがよぎりました。

水が落ちると、まるで水滴が無くなったように思える。
だけど水滴は無くなっていない。
水滴は判別できないが、それは浴槽の中でありつづける。
これって人間が死ぬ事とすごく似ているのではないか…と。

私達の世界は人それぞれ独自の感覚に縛られています。
私達は通常、他人の主観を知ることができません。
これはそれぞれが分離された世界です。
言うなれば手にしたたる水滴一つ一つのようなものなのです。
それは小さく、はっきりと一粒であることが分かります。

ですが、その水滴が浴槽に落ちると分からなくなってしまいます。
浴槽の中から落ちた一粒を確認することは困難です。
これが「死」とよく似ています。

我々が一粒一粒の水滴だとすると浴槽の水とは何なのか?
私はそれを無限の働きを持つ「神」と考えています。
人より遥かに大きな存在として存在し続けるもの。
神は生命の親そのものとも言えます。

私達は遅かれ早かれ、いずれそこへ帰ることになります。
浴槽に落ちた水滴のように、私達は生命の源に溶けこむことになります。
私達は個人個人が分からなくなってしまいます。

しかし、存在が消えたわけではありません、
生命の源そのものとなって存在し続けます。
落ちた水滴が浴槽の中で存在し続けるように・・・
それは、ある種の「無」とも言えますが、存在が消失するわけではありません。
そして、またいつか別の形で分離された生命になる時があるかもしれません。
その時あなたはあなたであって、あなたでないかもしれません。

水の働きは様々な事を教えてくれます。
水の働きとは生命そのものの働きとよく似ています。
それは水がそのように創造されたからです。
これが生命のモデルなのです。

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2015-07-04

小周天-任脈時の運用

「小周天-任脈時の運用」

気を泥丸で十分温養した後は、気を任脈(体の前面)から降ろします。
今回は任脈時の運用の注意点を書いていきます。

陽気は泥丸で温養を行うと、何らかの変化が発生し、
熱さ、暖かさではなく、圧力感、清涼感、磁力感のような感覚になります。
(どういった感覚になるかは個人差があります)
泥丸時に、陽気がまだ熱さ、暖かさを保っている場合は、
まだ、泥丸での温養が十分ではありません。

気を任脈に沿って泥丸から降ろす際の注意点は、
気の感覚が、途切れ途切れになりやすいことです。
具体的に言うと、泥丸から降ろそうと思って意識をかけ続けると、
印堂や顔を通り越して、直に胸に到達するということがあります。

最初はこれでも良いかもしれませんが、
本格的に小周天を行うなら、気の経路をはっきりさせていくことが必要です。
では、どうすれば良いかというと、
まず、泥丸から気を降ろす際には、気を少しづつ降ろすことです。

気を泥丸から降ろす際は、まず眉間と泥丸の両方に意識をかけます。
こうして、この泥丸・眉間の間で、なるべくはっきりと気を動かします。
眉間に気がしっかりと流れたら、同じ要領で、次は眉間と鼻を繋ぎます。
以下、鼻→人中(鼻と口の間、ヒゲの生える所)→舌先→のど→
胸(ここで温養)→みぞおち→上腹部→丹田(ここまでで一周)
といった順番で、二つずつ意識をかけていき、気の流れを細かく制御します。

任脈に気を通す際の注意点として、
舌を、上の前歯の付け根につけておくことがよく指摘されます。
任脈は、人中と喉の間が元々途切れているので、繋げておく必要があります。
瞑想中は(できれば普段も)、常に舌をこの位置に固定して置くことオススメします。
因みに、この位置に舌を固定することで、舌に力が入ってしまってはいけません。
あくまでリラックス状態であることが大切です。慣れれば楽にできます。

気を流す上で、任脈は督脈よりも障害は少ないと思います。
時間をかけて、温養と集中を行っていれば、そのうち気が通ります。
丹田まで気を戻すことができれば、小周天の一周は完了です。

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