2016-09-23

瞑想コラム1

「瞑想コラム1」

瞑想というのは、一口に瞑想といいましても、色々な技法があり、
その効果というのも、また異なる部分もあります。

気功の流れを受けている瞑想は、
どちらかと言えば、気の考え方を中心として、
体の中の気を整えるような働きを重視していると思います。

また、禅に代表されるような瞑想は、
心の中を調整するような働きがあると言えるでしょう。

座って行う瞑想は大別すれば、
この体を整えるか、心を整えることに目的があると言えます。
当然どっちが良いかということではなく、
どちらも必要なことだと、私は考えています。

私は今までどちらかと言えば、
気功に端を発する瞑想を主体として、独自に研究を進めてきましたが、
最近は、また考え方が変わってきまして、
禅などのように心を調整する瞑想にも興味が湧いて来ています。

なんといいましても、私が瞑想する理由は、
人生の苦しみを減らして生きたい、ということに主眼があります。
ですから、悟りを開くとか、超能力を開発するとか、
そういうオモチャで遊ぶような発想は今の私にはあまりありません。

まぁ何にせよ、世の中は生きているだけで心に汚れが溜まってきます。
特に、私のような儲け心の少ない人間は、
周りの毒気にやられてしまうことも多いですから、
心を調整してやらないと身が持たないわけです。

そういった時、禅のような心を調整するような瞑想は、
大変有意義なものだと、最近感じるようになりました。
しかし、やることと言えば、座ってリラックスするだけ、
あとは眠らないようにさえ気をつけていれば、
瞑想が終わる頃には良い気持ちになるわけです。

お金も掛からないですし、人にも迷惑をかけません。
むしろ心を落ち着かせている分、
日々、人に与える影響も良い方向へと向いやすいのです。

疲れた日は、気功系の瞑想に切り替えて、
丹田や命門辺りに意識をかけていれば、
すり減った活力を補充することもできますし、
まさに、瞑想なくして私の生活は成り立ちません。

それもこれも、私自身が現代社会に追い詰められたせいで、
必死になって瞑想を研究せざる負えなかったわけで、
そうして考えてみますと、
私にとっては何が良くて悪いかも難しい所ではあります。
まぁなるべくして落ち着く所に落ち着いたとでも言えるでしょう。

しかし、せっかく研究したものは勿体無いですから、
有効活用していく方が利口かもしれません。
いつかは本でも書くぞ!とも思惑を抱えていますが、
まだまだ修行不足で日々の生活も忙しい。

きっと地球からサヨナラする時には、
一冊ぐらい私の足跡をまとめた本を出すのではないか?
なんて、想像をしながら毎週ブログを書いてる今日この頃です。

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2016-09-19

リラックスと緊張

「リラックスと緊張」

瞑想の難しい点というのは、リラックスをしつつも、
時には集中したり、意識を切り替える必要がある事だと思います。

リラックスして瞑想すれば、自然と体のエネルギーが高まってきます。
ですから、基本はリラックスしている方が良いと言えるのです。
僕は最近、瞑想において若干偏差のような症状が出てきたので、
基本に立ち返り、リラックスを主体とした瞑想に取り組んでいます。

リラックスを主体とした瞑想といえば、
当ブログでは意識拡散型瞑想などを紹介しています。
この方法は、瞑想中に色々なことをしないで、
ただリラックスをすることを目的とした瞑想です。
瞑想がうまく行かなくなった時は、
このような方法で、1から再出発するのも悪くないでしょう。

しかし、リラックスも行き過ぎると眠くなってきます。
この辺が瞑想の難しい所で、リラックスするのが良いと言っても、
体の状態が一方に傾きすぎるのは、あまりよろしくないのです。
そうした体のサインが出た場合には、意識を切り替える必要があります。

リラックスした体を、一旦緊張に少し引き戻すには、
体のツボに意識をかけると、眠気が少なくなってきます。
例えば、会陰などがそのツボになります。

会陰というのは、体幹の一番下で、性器と肛門の間にあります。
このツボに意識をかけると、眠気が少なくなってきます。
意識を集中することは、元々体を緊張に近づけますが、
特に、この会陰への集中は、そういった効果が出ます。
もしくは、尾てい骨の辺りも似たような効能を持っていると思います。
どちらかうまくいく方を使うと良いでしょう。

つまり、リラックスとツボの組み合わせで、
瞑想中の体を、ある程度コントロールできます。

リラックスしたいと思う時は、どこにも意識をかけないで、
ただ座って、神経を尖らせないよう注意し、体の力を抜いていき、
あとは、時間の流れるままに任せれば良いのです。

逆に眠くなるほどリラックスした時は、
会陰なり、尾てい骨なりに意識をかけて、
ちょっとシャンとして集中していれば、眠気が楽になってきます。

リラックス→集中→リラックス→集中

と、波に乗って進めていけば、瞑想も30~40分楽にできます。
瞑想とは一見座っているだけのように見えて、
自分の内部では刻々と状況が変わっていくので、
その状況をうまく把握して、適切に対応する機微が大切なのです。

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2016-09-11

臥法の瞑想

「臥法の瞑想」

最近は瞑想において、偏差のような諸所の悪影響が出ている。
中々解決策を見つけるのに苦慮しているが、
今のところいくつかの対応を実験し、研究を進めている。

今回は、その研究の中で副産物として得られた、
臥法についての記事を書いてみようと思う。

まず、一般的に座って行う瞑想は、座法とか静坐とも言ったりする。
臥法とは、それらのように座って行うのではなく、
布団やベッドで寝る時のような、楽な姿勢での瞑想を差す。

一般的に瞑想と言えば、座って行うものを連想するかもしれないが、
立って行う瞑想や、寝るような姿勢で行う瞑想もあるのだ。
座るにしても、椅子に座ったり、あぐらを組んだり、
半跏趺坐とか結跏趺坐もあるし、色々やり方はある。

なぜ、どれかが決定版ではなく、色々あるのかというと、
それぞれのやり方に利点と欠点があるからなのだ。
今回はあぐらを使った座法と臥法の比較を中心に書いていく。

まず、あぐらの利点としては、
 ①適度な緊張感
 ②丹田や下半身に気が集まりやすい
 ③姿勢維持がそんなに苦しくない
 ④体の内部に意識をかけやすい

逆に欠点としては、
 ①足に気を送りづらい
 ②足を組み替える必要がある

こういった利点欠点があるかのように思う。

では、臥法はどのような性質を持っているだろうか?

臥法の利点としては、
 ①リラックスするのが簡単
 ②足にも気を通しやすい
 ③姿勢維持に気を使わなくて済む
 ④腹式呼吸がしやすい
 ⑤老人や病人でもできる(ていうかこれしか無理)
 ⑥瞑想後そのまま寝られる

逆に欠点としては、
 ①リラックスし過ぎて眠くなる
 ②丹田に気を集めにくい

などが挙げられると思う。
特性が分かれることもあり、それぞれに使いみちがあるのだ。

例えば、僕の今困っている症状は、
丹田に気が集まりすぎて頭に昇ってしまう。
これは偏差の一歩手前なのであまり良いことではない。
座法だと、どうしても気が丹田付近に集まってしまう。
臥法ならば気が丹田に付近には集まりにくい、
ということで、臥法を用いたりすることにも利点があるといえる。

臥法はリラックスや呼吸がしやすいので、
瞑想が辛くて続かないという人にも、けっこう有効だと思う。
適度なリラックスは瞑想の独特の感覚なので、
臥法でそういった感覚を習得するのもアリかなと思う。

逆に臥法にするとすぐ眠くなる。という人は向いてない。
こういう人は、どちらかといえば素でリラックスできるので、
臥法よりも座法を使って瞑想した方がいい。

当ブログの健康法と神秘行で紹介している、
白隠禅師の内観の法も、一種の臥法の瞑想と言える。
ということで、イメージとしては一般的ではないかもしれないが、
臥法も立派な瞑想法として成り立つのだ。

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2016-09-04

最悪を想定する

「最悪を想定する」

人生というのは常に最悪を想定しておくべきです。

人間というのは、常に豊かで穏やかな道を進むのは難しいものです。
それは、今の世界の本質が戦いに根ざしているからです。
そして不幸な出来事は前触れもなく突然やってくるものです。

僕は人生を歩んでいく上で、
以下のような考え方を持っていた方が良いと思います。

 明日死ぬ覚悟が出来ている人間は、
 100年生き続ける苦悩を想定しておく必要があるし、
 長く生きることを望む人間は、
 明日死ぬかもしれないということを覚悟する。

このように考えておけば、
人生において無茶苦茶な選択はしづらくなります。

今だけ良いという考え方で、刹那的な欲求を満たせば、
長く生きた時、その選択の代償を払うかもしれない、
と、考えられるようになりますし。

もしかしたら明日死ぬかもしれない、
と、考えておけば、人生で余計な回り道をしないで、
やりたいことや、やるべきことを、早い内に済まさなくてはならない。
と、考えるようになるでしょう。

このように常に自分にとっての最悪を想定しておけば、
準備を整えてから道のりを歩むように、少し安心です。

人生というのは長いようで短く、短いようで長いものです。
また、それが最悪の終わり方をすることも、
常に頭の隅に置いておく必要があるのです。

そして、幸せを当たり前だと思わないこと。

人生というのは、不幸になることが必ずあります。
不幸が当たり前だと思えば、実際に不幸になったとしても、
気持ちは焦らないことでしょう。

世の中というのは、不幸になることは当たり前のことですから、
僅かな時間の幸せや、ちょっとした幸せが、大きな価値を持つのです。
あなたが今、幸せな状況にあるとしたら、
それは当たり前ではないのです。特別なことなのです。

そう考えれば、幸せを手放す瞬間が訪れた時、
もう十分に味わったと、自然に手を放すことができるでしょう。
いつまでも幸せでいることは、普通ではないと理解できるからです。
厳しいようですが、これがこの世界の本質なのです。

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