2017-02-25

2017年2月の瞑想研究②

「2017年2月の瞑想研究②」

今回も瞑想の研究報告を行います。
前回までで色々試していたのですが、今回も問題が発生しました。
一番の問題となったのが体の陽気不足です。

これまでの研究から、僕は主に会陰を中心として調整を行っていました。
しかし、どうもそれだけではうまくいかないことがあったのです。
体の陽気が減って体調が崩れやすくなってしまいました。
なぜ、このような状況になったかというと原因は二つあります。

理由の一つ目は会陰が陽気を発生させやすい場所と勘違いしたことです。
某仙道書などでは会陰では陽気がすぐ発生すると書いてありますが、
どうも僕はその情報が正しいのか現在では疑問に思います。
仮に発生していたとしても体内に留めておくのが難しいのかもしれません。
そのため僕は書籍の情報源から会陰が攻守共優れていると錯覚したのです。

理由の二つ目は丹田の意識の掛け方が難しかっためです。
僕は丹田に下手に意識をかけると体調が悪化します。
丹田に対してのマイナスイメージがあったため迷いがあったのです。
しかし、今回は丹田・ヘソ付近で陽気を発生させなければいけないため、
再研究を現在進行系で行っています。

以上が研究不足の言い訳ですが、
丹田の活用法の注意点について今回は詳しく書こうかと思います。
まず重要なことから申しますと、
丹田の意識の掛け方は某仙道書通りですと正直うまくいくと思いません。
僕の開発中の方法と某仙道書では、意識の掛け方の強さが大きく違います。

この強さをどういう言葉で表現すれば良いのかと思いますが、
某仙道書の表現と比べると、集中の度合いは非常に弱いと思います。
某書の温養という表現が近いですが、感覚としてはもっと弱いかもしれません。
これぐらい弱くしてやらないと丹田は弊害が発生しやすいと思います。

この辺、某仙道家は当然分かってて書いていると思いますが、
神秘行の書籍はトラップや謎を解いてナンボというものなので、
個人的には特におかしな点ではないと思います。
そのため、自分で実践して行間を埋めなければならないのが実情です。

ということで、丹田への集中は非常に弱くした方が良い。
というのが現在の僕の感想です。
この方法なら丹田に気が集まった時に体調が悪くなるのは避けやすいです。
それにリラックスに近いので気も集まりやすいのも利点です。

どうも某仙道書を読んでいると神秘行は力技に思えてしまうのですが、
最近それは僕の求めている物とは違うな、という感覚を持っています。
ただ、某仙道家はそういった方向性に向いていたのだとは思います。
つまるところ、自分で研究しなければ答えなど見つかるはずがないのです。

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2017-02-18

神秘行の最終目標の考察

「神秘行の最終目標の考察」

今回は神秘行とは一体何を目指しているのか。
それについての考察を若輩者の私が行ってみる。

まず、いくつかの神秘行の高等段階には共通している所がある。
それは体外離脱を主とした技術である。
体外離脱とは一体どういうものなのか?
これは俗に言う幽体離脱と同じで意識と肉体の分離である。

まず、なぜこのような現象を引き起こす必要があるのか?
それには当然バックボーンがあるはずだ。
一番考えられる要因がこの世からの消滅。いわゆる解脱だ。
まぁぶっちゃけてしまえば死ぬ事と同じだと僕は考える。

しかし、ただ凡人のように自殺するのでは苦痛も伴うし芸もない。
そこで、合法的かつ出来る限り苦痛を伴わずに死ぬ方法、
その到達点の通過段階に体外離脱があるのだと思う。

死を苦痛なしで自由にコントロールできれば最強と言えるだろう。
全ての恐怖の根源は死から生まれるわけで、
これを自由にコントロールできるようにして、
克服しようとするのは智慧者なら至極当然の発想と言える。

しかし、多くの人はそのハードルが高すぎてまず諦めるわけで、
こういった問題に大真面目に取り組むのが神秘行家と言える。
以上のことから神秘行の目的とは、有名になってお金を稼いで、
良い異性と共に時間を過ごして幸せな人生を送るんだ!

…といった希望に満ち溢れるような方向性とは基本的に違う。
こんなアホらしい世の中をいかに苦痛を伴わずに逃げ道を作るか?
こんなことを真剣に考えているのが神秘行家と言っていい。
基本的には逃げ腰の思想から生まれていると僕は考える。

従って、過去の神秘行家が世の中はどうしようもできない。
といった、悲壮感や孤独感を感じていた事は間違いないと思う。
重要なのはそういった方向性と一致している人間が、
神秘行を実践してもよい人材なのだ。
夢いっぱい幸せいっぱいを目指す人間が行うべきではない。

といっても、これは本気で神秘行を目指す人間のことで、
神秘行の技術を利用して自己を高めることは悪くないと思う。
それは心身の健全化にも繋がることがあるし、
自分の才覚を磨くためにも利用することが出来るだろう。
だが、それは技術を開発した本来の目的では無いということだ。

今のところ僕はこういった方向性を目指してはいない。
まだ人生においてやりたいこともあるし、死に急ぐ理由も無い。
また、現在において私は体外離脱を主とした技術も習得していないし、
情報もそう多くを持っていない。

いずれはその段階に取り組む気持ちが強くなるかもしれないが、
まだまだ現世に未練がある内は取り組んだ所で無駄である。
だから、神秘行の一部を利用して楽に生きる手段を模索する。
そして、いつか本気でこの世から消え去るための環境だけは整えておく。
僕の立ち位置を説明すると、こんな所ではないかなと思う。

話を戻して、結論として神秘行の最終目標は、
死を自由にコントロールして克服する。これだと思う。
でも老衰で満足できるなら、それでもいいんじゃないかと思う(笑)

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2017-02-11

2017年2月の瞑想研究

「2017年2月の瞑想研究」

さて、前回の研究からの推移を今回も行いたいと思います。

1月後半から本日に至るまで、私は二つのミスをしました。
まず、その内容から説明したいと思います。
ミス①:自分自身を攻撃して体調を悪くした
ミス②:手足への集中を行って体調を悪くした

ミス①についてですが、これは何をしたのかというと、
一時的に自分の中をクリーンにしようと思いつき、
気による攻撃的感覚を自分に向けてしまったことです。

攻撃的感覚という気の操作の詳細はここでは説明しません。
というのも、これはかなり荒業でありオススメ出来ないからです。
概要的には対象に対して気のレベルで攻撃を仕掛けるものです。
ただ、私のように失敗したり悪用されると困るので詳細は省きます。

それで、この方法を用いて、
自分の内側にいるあまり好ましくない存在に意識をかけました。
ところが、これが大失敗を引き起こしました。
どうも自分の気の状態も崩れて、一気に体調が悪化しました。
原因は自分自身にも気の攻撃を加えてしまったとためと思われます。

それで、教訓としては自身に害意のある意識の掛け方をしてはいけない。
ということでした。
これは技術のある人が意図して行わなくてはできないことですが、
一応このような結果になる場合がある、というのを覚えておいて下さい。

ミス②についてですが、これはかなり一般的に起こり得るものです。
手足への集中を行って体調を崩したというものですが、
具体的には手足の末端、手で言うと手のひらの中心、
足であれば足裏の中心辺りに意識を掛けました。

なんでこんなところに意識を掛けたのか?というと、
寝る前に手足に気を流すと寝付きが良くなるかもしれないと考えました。
それで、実際やってみて寝付きはやや良くなりましたが、
引き換えに体調が崩れてしまいました。

どうしてこうなるのか?というのを推測してみると、
本来、手足というものは体幹の余剰な気を分散させる役割があります。
しかし、必要以上に手足に気を流すとどうなるか?

当然、体幹の気がどんどん外に流れ出して、
体で保持しているエネルギーの量が減ります。
これが今回体調が悪くなった原因ではないかと思います。
原因を推測した後、手足への集中を止めてからは体調が復帰しました。

また、今回の失敗時に体調を通常の状態に調整しようとした時、
改めてチャクラ・チューニングの効果的方法を発見しました。
普通にチャクラ・チューニングするのも一法ではあるのですが、
今回は手のひらチューニングが速効性を感じました。

参考①:手のひらチューニング①
参考②:手のひらチューニング②

実はこの方法、某仙道書にも記載されていますが、
これに絞ったやり方を大々的に強調していないので、
見過ごされている方も多いのではないかと思います。
ですが、ホンの少しだけ私と同じ用途で使っている記述もあるのです。
(大陸書房系だった気がしますがちょっと位置の記憶が曖昧です)

意外に思うかもしれませんが、これは瞑想中でも十分利用できます。
特徴は乱れているチャクラの修正が早いのです。
しかし、一人で実践する場合、体の前面のみしか使えないのが欠点。
ただ、基本的には喉から下腹部まで調整できればほぼ事足ります。

瞑想初心者の人やチャクラが乱れていると感じる時は、
積極的にこの方法を使った方が早く効果を実感出来ると思います。
ということで、今回の研究を以下にまとめます。

①攻撃するような感覚を自分自身に向けてはいけない
②過度な手足への気の集中は体調が悪化することがある
③手のひらチューニングが何かと使える

以上です。

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2017-02-04

判断力と思考力

「判断力と思考力」

あなたは何かを評価する時、どんな基準で評価を下そうとするでしょうか?
評価するというのは判断するということですから、
何らかの判断基準がなくてはいけません。
しかし、この基準が真実から大きく離れたものですと、
何かを評価しても間違った結果となります。

この基準が例えば、メディアの受け売りや人づてのみとなると、
これはかなり怪しい基準になると僕は思います。
というのも、言葉というのはすぐ曲解もされますし、
世の中は発信する側に、悪意のある第三者が普通に存在しますから、
信用できるソースを探すのは骨が折れるわけです。

これを世の中が間違ってる、と言ってもしょうがないのですね、
ここを見ている方は、そんなこと言わなくても分かると思います。
それで確実なソースっていうのは、基本的に外部にはないんです。
与えられた情報を自分の頭で、なるべく正確に処理して、
自分の中に出力された答えが、一番参考になるわけです。

これが出来ないと、世の中で成功することは絶対できません。
しかし、これって出来ない人には習得が面倒かもしれません。
僕も自然と身についていた物で、改めて考えると難しいと思います。

情報の処理というのは、ただ知識を蓄えれば良いものではありません。
知識を蓄えただけでは、歩く辞書になれるだけです。
これだけで良いなら、莫大な量の本を読めばいいだけです。
しかし、データ量の多さと大局的な処理能力は全く別物です。

世の中は玉石混合の情報が様々な場所に溢れていますから、
この中から玉だけ取り出すようなことが、処理能力の一例です。
こういった場合は、自分で考えて比較してみるのが面白いかもしれません。

○○がいい!じゃあそれでいいや!…で終わるのではなく、
なぜそれが良いのか?その選択の欠点は何か?他の選択との差異は何か?
疑問を持つという言い方もありますが、
よくよく考えてみることが、処理能力を向上させることの第一歩です。
これを億劫がるなら、人生の成功を諦めた方が良いかもしれません。

そして有力な情報をある程度絞ることができたら、最適化が大切です。
僕の言う最適化とは、集めた情報を自分の状況に合わせて比較・修正する、
ということです。

正しい選択とは、環境ごとに変わっていきます。
極論すれば戦時中に人を殺すことを躊躇えば大失敗です。
戦争が始まってしまったら、気持ちで負けていればより危険です。
一般的に人を殺すことは、世の中で最も重い罪ですが、
それすら時と場合となることがあるのです。

さて、話を戻すと全ての出来事はケースバイケースですから、
何かを選択する時は、自分の状況に有効な物だけを選ぶことが大切です。
これが奇法と呼ばれるもので、一般的に良いという物は正法と言います。
一般的にはこれが良いとされるけど、僕の状況ではこれが正しい、
といった、その場その場の臨機応変な選択が奇法です。

この奇法が有効なケースが、現実には非常に多く存在します。
最終的には正法と奇法の使い分けが、究極の選択術となるのです。
ですから一般的な選択と、自分に適した選択の両方を常に天秤にかける、
このように思考することができれば、
明晰に長けた人物に近づくことができる、と僕は考えています。

情報の取捨選択は、現代では最も活用される処理能力と言えるでしょう。
重要なのは漫然と選択するのではなく、よく考えて自分の理屈を作り、
それを適宜調整し、状況によって柔軟に使い分けることが必要だと思います。

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