2017-06-24

人間関係の妙

「人間関係の妙」

人間関係で最も重要な事は問題を起こさないことだと僕は考える。
では、問題を起こさないためにはどうすれば良いか?
それは誰からも嫌われないし、好かれないことだと僕は思う。

人から嫌われるような行為をしてしまえば、
信用が下がってしまうし、意思の疎通も円滑に行えない可能性がある。
ここまでは誰でも分かるような一般常識だろう。
その上で、僕は人からも好かれない方が良いと考える。

なぜ、仲良くしようとしたり、好かれることが良くないのか。
まず、人と人の理解を深めようとすると必ず摩擦が起きることだ。
世界中のどんな人間でも同一の人間は存在しない。
とすれば、相手と近づけば近づくほど相違点が目立つからだ。

その相違点が互いに許容出来るものであったり、
むしろそれがあることで面白味が出ることもある。
しかし、基本的に人間は自分と異なる存在を嫌う傾向にある。
それゆえ、本当の自分の本意は相手に悟らせない方が良い。
職場などの繋がりの薄い人間関係では特にこれが大切だ。

つまるところ人間関係は深入りすれば危険が増していく。
だから、君子の交わりは水の如し、と古来からも言われている。
人の関わりは薄いほど危険性が少ないのである。
ここが人間関係の不思議な点というか妙であると思う。

嫌われないし、好かれない状態が、
コミュニケーションにとって最も理想な状態となるからだ。

それにこの状態であれば、自分が他人に期待を持たなくてすむ。
期待というのは、あればあるほど上手く行かなった時に、
自分がショックを受けてしまうから無い方が良い。
世の中というのは本当は孤独なものなのだ。

結局、頼りになるのは自分だけで、現実を変えられるのも自分だけ。
突き詰めれば、たとえ家族でも頼りにすることはできない。
人間関係というのは見栄えを良くすることはできるだろう。
だが、それもホンの表層だけだ。
一歩でも人の内面に入れば、自分だけという孤独しか存在しない。

人生というのは生まれてから死ぬまでは、本当の意味では一人なのだ。
ただ、僕が言っておきたいのは孤独というのは悪いものではないし、
これは全人類共通のことだから、何も落ち込む必要はないということだ。
自分の人生の責任は全て自分にある、ということを強調しているだけだ。

人間関係にしても同じだ。自分以外はコントロールできない。
人とのコミュニケーションにおいても、その結果を支配するのは自分だ。
自分が誤った対応を繰り返せば、いずれ弾かれてしまうし、
その環境にあった対応を続けていれば、問題なく過ごすことができる。

自分が完全にコントロールできるのは自分だけで、
負わなくてはならない責任は自分の行動にしか無い。
それは、世界の人口が10人でも1000億でも同じ、
自分が行動した結果以上のものが返って来ることは決して無い。

だから、この世界にはたった一人の自分しかいない事と同じなのだ。

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2017-06-24

集合定思考10


「人間関係の妙」
「AIの未来」
「目に見えない力」
「一歩先の世界」

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2017-06-17

新しい価値観

「新しい価値観」

僕自身がこの人生においてやるべき仕事、
というより使命とか目的みたいな物が最近見えてきた。

僕が何をしなくてはいけないかというと、
お金に変わる新しい価値観を作らなくてはならない、
そう最近強く思うようになったのだ。

今の世の中の全ては、お金に支配されていると考えて良い。
これを否定することは、現実が見えていない人間だけだ。
命の次にお金の心配をすることは常識というものである。

僕がやらなくてはいけないことは、
この命の次に心配するのが、お金ともう一つの新しい何か、
という何かの部分を見つけることだと考えるのだ。
これは非常に大変な仕事だと思っている。

というのは、お金以外に価値を見出すことが、
一般的に言えば余暇程度のレベルまでが限度だと思うからだ。
これをお金に近いレベルまで引き上げるのは、
人類の今の価値観を大幅に変えていく必要がある。

しかも、僕は目的を見つけることはできたのだが、
それについて最も効果的な方法を見つけることができていない。
そもそも、何がお金と同等の価値を持つのか、
それが自分自身はっきりしていないのだ。

なぜ、そんな状態で目的が分かると言えるのか?
これはもう自分の直感としか言い様がない。

ただ、それだけでなく一つ言えることは、
お金のように有限の物が人の価値観の全てを支配してはいけない、
そう強く感じるようになったからだ。

有限の物が価値観の全てを支配すれば、
それは争いが起きて当然のことであり、平和などとは程遠い。
まぁ、平和が本当に良いか悪いかは別として、
僕は人間同士の無駄な争いは無くすべきだと考えている。

だから、僕が提示する新しい価値を見出すものは、
無限の物である必要があるのだ。
取っても取っても無くならない物でなくてはならない。
それは当然物質的な形のある物ではないだろう。

今まで人類はこれと同じ物を目指して失敗を繰り返した。
特にひどいのが宗教だ。これは明らかな失敗に終わっている。
宗教がもたらした物は利益よりも害悪の方が多い。
宗教の一番大きな失敗要因は、人を組織化した事だと僕は思う。

まぁ、それは置いておいて、物質的ではない何か。
それも宗教のような大部分が表面的で終わるものよりも、
もっと深い物、それが僕の求めている物だ。

ただ、今は追い風が吹くようになった。
それは、AIの進歩により人類に大きな変化が起こる時だからだ。
これにより人の持ってきた古い考え方が捨てられる時なのだ。
そこに新しい何かが入り込む余裕がある。

お金と同等以上の新しい価値が現れるなどあり得ない。
と考える人も多いかもしれないが、
そのぐらいあり得ない方が意味のあることだと思う。

50年前にインターネットが生活の一部になることなど、
その当時の人間はあり得ない、と考えていただろう。
だが、それが現実化したことで世界への影響は凄まじい物がある。
あり得ないと思うことこそ、最も価値があると僕は思うのだ。

ただ、現実的には先が長い話だ。
僕の願望の達成にはそれこそ何十年単位の時間が掛かるだろう。
今は少しづつ目標に向かって歩む時だと思う。
きっと進み続ければ必ず目的を達成するための鍵が見つかる、
そう今は思っている。

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2017-06-10

2017年6月の瞑想研究

「2017年6月の瞑想研究」

今月も瞑想の進捗状況の報告を行いたいと思います。

さて、前回から比べて今回も変わったことがあります。
それは試験的に椅子に座って瞑想を行うようになったことです。
なぜ、椅子を用いて瞑想するにようなったのか?
それは椅子が坐法に比べて利点が多いことに気づいたからです。

まず、椅子の瞑想の利点として挙げることができるのが、
丹田に必要以上に意識が向かないことです。
このブログを読んでいる方は、
丹田で陽気が発生することを知っている方が多いと思いますが、
私は個人的に丹田での陽気の過剰発生が問題になりやすいのです。

坐法、例えばあぐらですと、
座った時点で丹田に強く意識が掛かりやすくなります。
これは、利点でもあり欠点でもあるのです。
丹田で陽気の発生が難しい方には良いこともあるでしょう。

ですが、逆に既に陽気が発生しやすく、
過剰に発生した陽気の処理に困る、
という方にはあまりオススメできない座り方だと思います。
私は既に陽気が発生しやすい体質なので、
丹田を過剰に用いるとかえって調子が狂うこともあるのです。

対して、椅子の瞑想は坐法ほど丹田に負荷が掛かりません。
逆に言えば陽気が発生しづらいのですが、
私にとってはこちらの方がリラックスしやすく、
瞑想に集中しやすいという利点があることに気づいたのです。

椅子の瞑想の利点としてもう一つ挙げられるのが、
足の気の流れが阻害されないことです。
坐法ですと足に負荷が掛かるため、気の流れが悪くなります。
椅子であれば足は楽なので、組み換える必要もないですし、
瞑想中にグラウンディングも行いやすいと言えます。

実は、しっかりした瞑想本には、
椅子をメインに利用することが記載されています。
この辺、あまり固定観念に囚われないことが大切です。
瞑想と言ったら坐法しかない、と考えるのは視野が狭いでしょう。

自由人と言うのは形に囚われないことが大切です。
合理的であれば常識的発想に拘らずに採用する。
このように常に合理化に務める必要があります。
座り方一つをとっても、形に囚われるのは2流以下です。

技を磨くためには、工夫の連続です。
本を読まないのもいけませんが、本に囚われるのもいけません。
知識を持つだけではなく、高いレベルまで昇華して、
自分に合った方法を合理的に体系化することが大切です。

と、言うのは容易いのですが、
なかなか中身が伴うまで時間が掛るかもしれません。
ですが、神秘行というのは一生をかけて行う事ですから、
今日より明日が良くなれば、それで十分なのです。

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2017-06-04

AIに対する驚き

「AIに対する驚き」

昨年、AIが囲碁においてトップ棋士を破ったのは記憶に新しい。
さらに先月(2017年5月)人類最強がAIに完敗したこともあり、
人類はAIに勝つことは不可能になったと言ってよい。

だが、驚いたのはそれだけではなかった。
AI同士が対局した結果を開発者がギフトとして全世界に提供したのだ。
それは人類が未だかつて到達したことのない領域の記録だった。
私も囲碁を打つ者の端くれであるから、多少のことは分かるつもりだ。

しかし、人類にとって奇妙に見える手でも、
それが最強のAIにとって一番良いと見ている手なのであり、
いかに人間が常識に囚われているかを、ハッキリと思い知らされた。
しかも、これは19路の碁盤という限られた世界での話である。

私は前々から人工知能が支配する世界が到来する、と考えていたが、
その想像は甘かったかもしれない、と今は考えている。

というのは、せいぜい人類の最高峰の知能・技術が一般化する、
ぐらいに考えていたのだが、
実際は人類が想像もできない領域に踏み込むということになりそうだ。
それは人間には良い悪いも分からない未知の領域ということである。

人口知能は我々の全てを変えてしまうだろう。
その変化が訪れるのは確実であり、分からないのは時期ぐらいである。
もはや知性において人が人工知能に勝る点は無くなる。
しかし、僕はそれで人間と人工知能の主従が逆転することはないと思う。

なぜなら、人間は霊的な存在であり、知性が人間の全てではないからだ。
おそらく人工知能は霊的な領域まで踏み込んでくることは難しいはずだ。
霊的というのは個人の体験が主体であるから、
それを人工知能が体験することは難しいと思うからだ。
せいぜい合理的な瞑想の方法をまとめるとかぐらいだろう。

そういうこともあって、僕は精神世界の投資を怠らない。
なぜなら、この領域は最も奪われづらい所にあるからだ。
僕は未来のために着々と足場を固めている最中だと思っている。

もはや近未来予測において人工知能の支配は避けて通れない。
人工知能が一体人間に何をもたらすのか?
それは実際に体験しないと分からないが、人類は先に進む以外に道はない。

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